明治2年(1869年)6月17日

長野県上水内郡安茂里村(現在の長野市)に藤原茂兵衛の三男として生まれる。父茂兵衛は農業の傍ら藍問屋を営み安茂里村一番の財産家といわれた。明治18年医者になることを条件に上京したが、医学の道には進まず明治22年(1889年)慶應義塾を卒業する。慶應義塾卒業後、先輩で時事新報の伊藤欽介に相談して松江新報に入社、主筆となる。松江新報が経営不振に陥り解散寸前となったため、藤原は申し出て会社を引き受け社長兼主筆となるが、新聞用紙の調達に苦心し、結局経営に行き詰まり新聞記者を辞めて帰京した。

昭和4年(1929年)

  • 貴族院議員に勅選される。昭和8年(1933年)王子製紙、富士製紙、樺太工業の三社合併を実現し、資本金1億5000万円、日本国内のシェア90%を持つ巨大製紙企業を出現せしめた。藤原は新生王子製紙の社長に就任し「製紙王」の異名を取るようになる。 昭和13年(1938年)社長を退き会長となる。同年私財800万円を投じて、人材育成を目指して横浜に藤原工業大学(昭和19年に慶應義塾大学工学部となる)を設立した。開校式は藤原の70歳の誕生日であった昭和14年(1939年)6月17日であった。 昭和15年(1940年)米内光政内閣の商工大臣に就任する。昭和16年(1941年)産業設備営団総裁、昭和17年(1942年)海軍顧問、内閣顧問を経て、昭和18年(1943年)東條英機内閣の国務大臣に就任する。昭和19年(1944年)東條内閣が倒れ、小磯國昭内閣が成立すると軍需大臣に転じる。 戦後、上記の経歴によりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によりA級戦犯の容疑を受けるが、指定されずに済む。その後戦争受刑者世話会理事長として、昭和31年(1956年)7月21日付で法務大臣牧野良三に宛てて巣鴨プリズン処刑台跡地(現:サンシャイン60脇の東池袋中央公園)の永久保存を請願した。 昭和34年(1959年)数え90歳を記念として藤原科学財団を設立し、同財団に1億円を寄付し藤原賞を設ける。 昭和35年(1960年)3月17日脳軟化症のため死去。90歳。